はるぱりじかん

東京パリカのブンガク恋慕 ーー 遙カ成リ巴里 vol. 20

ウィズ・ザ・シー、シーズン スガダイローのソロピアノ

スガダイローの二枚目のソロアルバム『季節はただ流れていく』がリリースされて、それについてちょっとはかきたいとおもいつつ、なにしろブログの更新自体をなかなかしない状態になってしまっているので、ちょうど今、お米を炊き忘れて炊いている時間をつかってすこしくらいかきはじめようとおもう。

 

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でも、スガダイローのアルバムについてではないはなしになりそうだ。

 

ごはんが炊けるまで、かけるところまでかこう。

 

アップはするけれど、あとで書きなおすとおもう。なにしろ今は仕事のあとでくたくたなのだ。

 

こうやって書くことも仕事ならどんなにかいいのに、とついおもってしまう。

 

 

わたしがはじめて自分でくり返しきいたピアノのソロ・アルバムはジョージ・ウィンストンの二枚で、もう山口県に引っ越していた小6の頃、あるいは中1か、定かではないけれど、母が買って家にあった『Autumn』と『December』だった。当時はやったのだろうけれど、そうしたこともわからずに、ただそこにあるからきいていた。すききらいなどわからない子どもだったから、すきともきらいともおもわなかったけれど、それをきくことがなにかよいことだおもってただ流して、ただきいていた。

 

そのせいだろう。ときどきジョージ・ウィンストンのことはおもいだす。

かれのアルバムをめぐる印象的なおもいでもある。そのはなしをすこし。やっぱりダイローばなしからは離れていくけれど。

 

                 ♪

 

ある日、友だちが自分の家に遊びにきたときに、その友だちとお茶をするのに『Autumn』をかけっぱなしにしておいたことがあった。

かのじょは6年生で町田から山口県に引っ越してきた転校生だった。わたしは4年生の秋にさきに転校生を経験していた。ただし、かのじょはもともとこちらに家があった。かのじょの祖父は地元の私立高校の理事長で、かのじょの親が祖父母と離れで住むために建てた新しい家の横には、大きな敷地が広がっていて立派な平屋の家があった。

かのじょはあっというまにクラスのファッションリーダーとなったお洒落な子だった。だから、東京から引っ越してきたわりにまったく垢抜けたところのない、ませたところもないわたしとかのじょでは、いわゆるグループのようなものも違っていたけれど(といっても、わたしはどんなグループに属していたか、ひどくぼんやりしていて、そういうところもやたらとぼんやりとしたわたしは、やっぱり自分でふり返っても、ちょっとヘンな存在だったのだとおもう)、すぐにかのじょはわたしがちょっとヘンな子だと言って目をつけて、あんたなんかおもしろいね、とおもしろがって近づいてきた。たぶん、東京を知っているということが安心だったのかも知れない、なにはともあれ、あっというまに仲良くなった。

かのじょはいつもいろんなことをおしえてくれて、まだ小6なのにファッション誌の『non-no』を買ってみていたり、「わたしアルフィーの高見沢さんがだいすきなの、パリちゃんは?」、といったことを、あきらかにときめいた様子ではっきりと口で言ったり、きらいなものは「イヤ〜」とはっきりいやがったりと、わたしにはおどろきの連続で、一緒にいてとてもたのしかった。そういえば、かのじょと過ごした日々のことは、書きたいことがいくつもある。

そんなかのじょ、Eちゃんはときどき家に遊びに来てくれた。それがはじめて遊びに来てくれた日だったかどうだかはおもいだせない。ともあれ、部屋で音楽をかけておくのはすてきだし、よいことにちがいないとおもったのか、それとも、そんなこともわたしはかんがえなかったのか、かんがえなかったようなきがするが、とにかくジョージ・ウィンストンの『Autumn』のCDをわたしはかけた。日々、ただただ、それを流していたのだから、その延長でEちゃんがいるときも再生したということのような気がする。

おもえばこの日の出来事も、かのじょがおどろかせてくれたことの一つになる。

 

そうやって、BGMなんてことばもしらなかったかもしれないわたしはジョージ・ウィンストンのピアノをかけて、ふたりでお茶をしながらおしゃべりでもしていたのだけれど、しばらくもしないうちにEちゃんが、「パ、パリちゃん……」と言う。見るとどうも、顔色がわるい。「ど、どうしたの? だ、だいじょうぶ?」とわたしはうろたえ言ったのだろうか。おどろいたことに、といっても、当時のわたしにとっておどろきだったということにすぎないけれど、Eちゃんは、こう言ったのだった。

 

「パリちゃんあのね、音楽を止めてほしいの、きもちわるくなってきちゃったの」

 

なるほど、とおもった。弾き続けられるピアノの音の渦にEちゃんは音酔いしてしまったのである。そのことはすぐにわかった。音楽をかけていて問題ないかをたずねなかったことを詫びつつ、わたしはすごくおどろいていた。

音楽って、こんなふうに人に、人の身体にはたらきかけるものなんだ。音楽って、耳だけできいているわけではないんだ、体中で感じるものなんだ!

ほんとうにおどろいたので、わすれられない。

もちろん、そのときはEちゃんにとってはきもちのよいことではなかったのだから、もうしわけなかったけれど、音楽も好みはひとそれぞれだということを実感する以上に、そのはたらきのようなものについてはじめて考えたのだった。そして、音楽を流していても、流しているだけで、自分がちゃんとは聴いていなかったのだ、ということにも気づかされた。

これが、Eちゃんとジョージ・ウィンストンのアルバムのおもいでだ。

 

                     ♫

 

スガダイローの音楽との出会いは、十代の終わりで、そのころは、ジョージ・ウィンストンのことをおもいだすことはない時期、ジャズというものに近づいて、はじめてマイルスや、コルトレーンや、モンクやバド、エヴァンスやチックやキースなどを聴きはじめたころ。スガダイローは、ジャズをおしえてくれたというよりも、ライブの音楽の楽しさに気づかせてくれたピアニストだった。まだ無名のこのピアニストの奏でる音をすききらいなどもかんがえず、それをきくことがなにかよいことで、すてきなことで、かけがえのないことなんだとおもって、機会があればせっせときいていた。それはかれがまだ国立大で生物学を専攻していたころだったが、同じくさらにとても若かった自分が当時所属していたS大のジャズ研のスタジオで、はじめてまぢかできいたかれの弾いた二曲がわすれられない。ただのすぐにやめるセッションだったが、Everything Happens To Me とSatain Doll。音がきいたこともないくらい大きくて深くて分厚く、弾く手をうごかす腕は今よりずっと細かったけれど、そのうごきはすでにダイナミックで、音の波がやさしくつよく部屋を揺らした。楽器を弾くっていうのはこういうことなんだと、感激して胸が熱くなった。そしてほんとはその音がすこしこわかった。

 

 

そんなスガダイローの新譜を聴いた感想の詳細をのべることは、ごはんの炊けそうな今はできそうにない。だけど、二つだけ、すぐにかけることは書いておこう。

 

一つは、はじめてこのアルバムを再生して、最初の音を聞いた瞬間におもったことについて。

 

「あ、これ、この音、この音楽」とおもって、「これ、何かっぽい」とおもいかけてすぐに、「あ、そうか、これ、スガダイローだ」とおもい至る。「誰かっぽい音楽」なのではなくて、どのように耳を傾けても「かれの音楽」なのだ。いつの間に。これほどあたりまえのことはないようだけれど、このピアニストがそこになんとなく到達しえたとは到底いえないだろう。そもそも、ジャズのピアニストの音というのは、いろいろなプレイヤーの記憶の重なりであり、いろいろなスタンダードの演奏の記憶の重なりである。ジャズというのはなにをおいても、それがたのしいのでありまたうつくしい。ジャズは複数的な要素があまりにもつよく、それが時に音楽に難解さをまとわせるため、「癖」ということはべつにして、「自分の音楽の世界」といえるようなものを見だすことに苦労するプレイヤーは少なくないのではないだろうか。スガダイローは、かなりはやい時期から、というよりもはじめからそうだったのかもしれないが、ジャズの難解さを聴く人と共有することを、心からよろこぶとしても、敢えてもとめることはしないようにおもう。そのかわり、聴く人がその時間をたのしむことをひたすらのぞむピアニストであるという印象がある。今回のアルバムは、そんなスタンスのスガダイローが、とうとう自分の音楽の世界というのを捉えようとし、捉えた、そういうことを感じさせるアルバムだとおもう。

もっとも、譜面までつくった十二曲で一年をうたい海につづくこの作品を、ツアーでいくつもの土地をめぐり、夜ごとにおなじ曲をくり返しながら、毎回ちがうピアノで、毎回ちがう表情で、演じきった点でやはりフリーであるように(たとえばしばしばライブで情動的な音でに聴くことが多かったとおもわれる「如月」の録音のマットな音のそのおだやかな表情の不思議)、かれがやっぱりフリー・ピアニストであることはうっかりわすれるわけにもいかない。つぎの五反田文化センターでのコンサートが終わるまでは、『季節はただ流れていく』をゆっくりと、じっくりと、背中を丸めてひきつづけるのだろうけれど、ではそのつぎはなにをしようとするのか、やっぱりこちらがおもいよらないようなべつの一歩を踏み出して、こちらが呆気にとられる音をひびかせてニヤリとしてみせるのだろうか。

 

……そんなことをまずおもったのでした。

 

それから、もう一つ、『季節はただ流れていく』というスガダイローらしいぶっきらぼうなタイトルのさいごにある「海は見ていた」は、このアルバムの四季という時の流れに空間をさしだす不可欠な一曲で、そのうえとてもすてきな曲だとおもう。ピットインでのツアー・ファイナルでも、とてもよかった。スガダイローの名曲にかぞえたい。

 

「よっ、スガダイロー、海のピアニスト」、とこれを書きながらあらためておもった。

 

……なんていっているうちに、ごはんが炊けました🍚

 

以前スガダイローについて、一枚目のソロアルバムについて書いた投稿のリンク(みると、これも言い訳しながら無理矢理書いていて、なんでもいいから書いておきたいみたいのね)

for sugadairo solo piano at velvetsun - 逍 遙 遊 vol. 3

 

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あとでいろいろ、かきなおしますが、それもいつになるかわからないので、アップしちゃいました。